こないだテグでサンテさんに会って
サンテさんは変わらずサンテさんやったけど
でも20年以上たっているから、
サンテさんも、あの頃のサンテさんではないはずなんや。
サンテさんは糖尿にもなってるしやね。
ワイもいろんなことを経てきて、あのころとは違う。
そして、いずれ何十年か後には、お互い、この世におらんだろう。
またサンテさんと会って、
しかも20年以上の時を経て、テグの図書館で会って、
それはなんか感慨深いことよなー。
あのとき
ワイはほんとに無計画にテグに来た。
こわくなって、すぐに帰ってくるかもしれん
と思いながら、テグに来たんやな。
いまと似てるな。
20年以上前のこと。2003年の1月や。
ちょうど韓国の大統領がノ・ムヒョンさんにかわったころや。
今も大統領が変わってから間もないよな。名前忘れたわ。
あのときは、大阪南港から、パンスターフェリーやったかな、
船に乗って、韓国はプサンに向かったんや。
ほんまに何も決めてなかった。
その前日まで、泉大津のお菓子工場で、お菓子つくって配達してたからなー。
そのとき、わたくしは坊主頭やった。
今も、初心に帰って、坊主頭にしようかな。
フェリーの船室で、リンゴかじってたのを思い出すな。
あのときもいろんな人が助けてくれたなー。
ワイ、ワーキングホリデービザの期限ぎりぎりで、韓国に行ったんや。
ワーホリのビザっていうのは、韓国に1年間滞在できて、その間に仕事をしてもいいっていう滞在許可証なんやけど、それはビザを取った日から、1年以内に韓国に入国しないといけないねん。
韓国に入国した日から、ビザが発効して、1年間いられるんや。
わたくしがワーホリのビザを取ったのは、
「そうなるようになっていた」
としか思えないんや。
だいたいそうやな。
人生の分岐点って。
今も同じ感じや。
ワイが韓国領事館をやめるときに、
「ワーホリビザはとれるからとっときや。」
っていわれて、なんかすすめられるままに取ったんやな。
でもな、ワイはその時、「韓国語恐怖症」やった。
韓国語ができないのに、韓国領事館ではたらくことになって、
電話はみんな韓国語でかかってくるから、とるのが怖くて、
韓国語ができないこともあって、その職場をやめることになったから
ワイは当分韓国語を聞きたくもなかった。
だから、そんなビザとっても絶対使わんけどなー、と思っていた。
「まあ、取れるんやからとっとき。一年以内に行けばいいから、なにがあるかわからんでー。」
って勧められいて、しぶしぶ書類揃えて、顔見知りの、っていうかとなりの部屋で働いてたんやけど、文化担当の領事さんと形ばかりの面接をして、ワーホリビザを手に入れたんや。
当時は、オーストラリアとか、カナダとかのワーホリビザは大人気やったけど、
韓国のワーホリビザは、毎年定員割れしていて、受けたら通る、みたいな感じやったらしい。
そのころ、日本で韓国はあまり人気なかったんや。
日韓共催のワールドカップがあったり、大統領の金大中さんが文化交流を推進したり、
のちの「韓流ブーム」の下地はあったんだろうけれど、一般的には、
「韓国語ができても、しごとないやろ。くわれへんやろ。」
っていわれてたなー。
それが、数年後にはNHKで「冬のソナタ」のドラマが放送されるのがきっかけで、
急速に、「ヨンさま」ファンなどの韓国好きの方々が増えていくんやなー。
そして韓流ファンの娘さんたちが韓国推しを受け継いでいくという。
今では韓国ワーホリビザの定員は当時の何倍にもなって大人気みたいや。
だから、コロナ騒動のときもそうやけど、未来ことはなかなか予測しがたいよなー。
見通せない未来を計算して心配するよりも、今やりたいことに突き進むほうが大事なことかもしれない。
わたくしは大阪に暮らしていて、いつのころからか、韓国人と在日の人のトモダチや知り合いが、つぎつぎとできていった。
ワイが出会った人はええ人ばっかりやったと思う。
だからこれから先もええ人ばっかりなんじゃないかと思っている。
領事館をやめた後も、領事館で知り合った仲間たちは、わたくしのことを気にしてくれて、住む家を紹介してくれたり、一緒に旅行に誘ってくれたりした。
ワイはお菓子工場と弁当屋をかけもちして休みなく働いていて、そんななかで、
彼らと一緒にいる時間が、ゆいいつ心が安らいだし、たのしかったんや。
ワイはみんながだい好きやった。
でも、彼らが韓国語でしゃべっているとき、ワイだけが言葉をわからなくて、
それがだんだん、さみしく感じられてきていた。
そして、働いていたお菓子工場がつぶれたことをきっかけに、
「そういえば、ワイ、韓国へのワーキングホリデイビザもってたよな。あれ、まだ一年たってないやんな。」
いっちょ、行ってみようか。この際。ワイ、30歳を超えていたけれど。
「いまさら韓国語を身につけて何になる」って言うひともいたけど。
「あら、いいわね。いってらっしゃい」って送り出してくれた人もいた。
わたくしのだいすきな、かれらの母国語ができるようになりりたい。行ってみようか。1年間。
ってことで、ぎりぎりのタイミングで、「韓国に行ってみる」ことを、急転直下、決めたんや。
しかし正直、おかねがなかった。
「ワーキングホリデイ協会」みたいなところに相談にいったら、
「一年いるなら、最低でも100万円は必要」って言われた。
じゃ、半年ぐらいしか、いられないかー、と思った。
でも、韓国の宿所に関してのパンフレットを見ていたら、ちょろっと、「コシウォン」っていう、ばか安い宿のことが書かれている。
「え?なにこれ」
ワーホリ協会の相談役の人に聞いたら、
「コシウォンっていう、受験勉強する人がこもって勉強するための、勉強して寝るだけの狭い狭い部屋があって、安ければ月に一万円代から、2万円とか3万円とかで過ごせる」
っていうねん。
「え?そのコシウォンって、僕ら、住めるんですか」
「あ、住めますよー。でもふつうの人が暮らすための宿じゃないかなあ」
いやいやいやいや。コシウォンってとこに住めばいいやん!
ワイふつうのひとじゃないやん!できるやん!天性のホームレスやん!
宿さえ安くしのげれば、一年間で、100万円なくても、50万円でも、じゅうぶんいけるやん!
アルバイトもできるかもしれんやん!
語学学校なんか通わなくていい、図書館に通って独学すればいいやん!
なんだって、抜け道があるもんや。
工夫すれば、予算80万円でも、十分、韓国で1年間すごせる。
「できない」とか「むり」とか「予算○○円は必ずいる」
とか、それ、やりようで、何とでもなるから。
このマインドを、今のワイにも伝えたい。
工夫しなさい。
100人が無理というとしても、ワイはその100人ではない。
情報収集せよ。
できるものはできる。一人でもできる。
そんなわけで、わたくしは大阪南港からフェリーに乗りました。
そうそう、ホンマは、旅行会社を通したら、フェリーの席はとれなかったんや。
飛行機も満席。ちょうど、韓国の旧正月やったんやな。民族大移動の時期や。
「わー、もうビザ切れるやん。韓国行けなくなった。とほほ」って泣きべそかいてたら、
領事館のキム先輩が、
「おれにまかせろ」といって、そしたらフェリーの席があっというまに取れたんや。
どういう仕組みなんや、あれ。
当日、なんかフェリー乗り場に行ったら、偉い人が出迎えてくれて
「キムさんのご紹介ですね」
というて、45度のお辞儀されて、いちばん安い二等船室の料金なのに、
2番目に高い「デラックススイート」みたいな個室の部屋に案内されたんや。
「ごゆっくり。よい旅を」みたいな。
ほんま、どうなってんねん、あれ。
空いてなかったんちゃうの?
「上級国民」の世界っていうのが、別枠であるのかな?
なんかあるねんてー。
今はそういう領事館コネはまったくなくなったよなー。
でも、なくていいよ。今は、大邱に友人がいるからね。
すごいコネやで、上級国民にまさるとも劣らない友人パワーや、これ。
さて、ひと晩フェリーで移動して、ワーホリビザの切れる当日にプサンに到着して、
セーフ!と思っていたら入国審査で、
「おい、なんでおまえ、ビザとってから1年間もたってから来たんや、おかしいやろ。」
みたいにして止められて怪しまれたけど、
なんかまた領事館経由で連絡してもらって、
「失礼しましたっ。どうぞっ」いうて解放されて、無事に韓国に入国できたー。
なんか、上級国民的なパワーってスゲーよなー。
今はないけどー。
さてしかし、その夜の宿も決まってないし、翌日から何をするかも決まってない。
気がくじけて、すぐに帰国するかもしれん。
そんな感じで、わたくしの「韓国語独学留学」は始まったんやったなー。
不安だらけや。ことばもわからんし。
「無理無理無理無理―」ってなるよなー。
「南無阿弥陀仏―!」
これからどうなんの?
事前の予定では、2、3日プサンで過ごす予定やったけど、
とてもむり!
もう、心細くて、心細くて、
とりあえずワイはすぐに高速バスに乗ってテグに向かったんやー。
百十六粒目『わたくしとテグ④韓国語独学留学のはじまり』

1件のコメント
上級国民パワーすげー!
普通って言葉は嫌いです
価値観人それぞれだもの
普通なんてことはない
このお話も体験も1つの特別です
唯一無二の素敵な体験です