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十粒目『藤井、コイになごむ』

ふと見た川に、コイが泳いでいるとうれしい。
気分がなごんで、ちょっと顔がほころんで、

「ああ、コイや」

と小さくつぶやいてしまう。

あれは、ボクシング部の夏合宿のときや。

海が近い田舎の森の
草木に囲まれた古い宿舎。
朝の走り込みと午前の練習が終わって
お昼ごはんを食べて
夕方の練習までの休憩時間に
散歩に行こうか、ということになって
みんなで宿舎を出たんや。

まあまあうるさくセミが鳴くなか
そのあたりに一軒しかない小さな商店にむかう道の途中に
小さな橋が架かっていて
小さな川が流れていたんや

ワイは一団の後ろの方を歩いていた。
前のほうで、先に橋を渡る先輩がたが、
橋の下の川の様子を見て、なごんだ表情になっている。

「お?川になんかおるんかな。コイか。カメか。」

などと思いながら橋にさしかかって下を見ると
川の中には色とりどりのりっぱな錦鯉が
ゆったりと群れをなして泳いでいた。

ああ、コイや。

ワイはちいさくつぶやいた。

なごんだ気分で顔を上げ、ふと後ろを振り返ると、
ワイの後を藤井が歩いてきていた。

こいつは、コイを見てどう思うんやろ?

アホやから、藤井の辞書には「風情」という文字はないから、
川にコイが泳いでいたとて、全く無表情なんとちゃうか。
いや、それとも、アホやから、動くものを見たらなんでもうれしくなって、
「へへへへ」と笑うんか?
それとも、脳みその半分が食うことを考えているから、
「わたなべ。みて。コイや。うまそうやな」
とかいうんかな?

そう考えているうちに、藤井は橋にさしかかり、
眼下の川に目をやると、コイが泳いでいるのを見つけたらしく、
ふっと表情をほころばせて、
こっちを見ると、こういったんや。

「わたなべ。きんぎょや」

これは実話です。


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