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百一粒目『ほんものとは』

「ほんもの」ってなんや。

「ほんものと、つきあいなさい」
「よのなか、にせものばっかりや」
「あいつ、結局は、ぶれぶれや」

そういうのをきくと
「ほんもの」になりたいなーと思うけれど
「ほんもの」って、どういうことや?

人に対して、生き方に対して
「この人はほんものだ」
と感じるときが、たしかにあるんやろなー。

そんな「ほんもの」の人物に会えば、理屈を超えて、

「あ、このひと、ほんものや」

とわかる。

「ほんもの」とは何を意味するんや。
どうやったら、「ほんもの」になれるんや?

考えてみたんやけど、
たぶんな、
「天啓を受けた」
とか
「天賦の才を授かった」
というだけでは、「ほんもの」にならないよなー。

たとえば、たくさんのひとが、おさないころから、
「人の幸せを願う」
といった強い気持ちを抱くかもしれない。

スポーツでも、芸術でも、
「天才少年」「天才少女」
とよばれる人は、そんなにたくさんいないとしても、
ぽつぽつ、学校に何人かは、あらわれるものでしょう。

けれど、どんなにすごい「天才」をもって生まれたとしても、
もしくは、どんなに深い「愛の思想」を持ったとしても、

それを行動と一致させて、この世にあらしめることがなければ、
それはきっと「ほんもの」にはなりえないよなー。
才能を「もっているだけ」では、「にせもの」になるよなー。

だから、ひらめきや、才能は、
「ほんもの」になるための
「はじめの一歩」にすぎないんやろな。

きっと、古今東西、天才とか、天啓をさずかった人というのは
少なからずいたのだろうけれど
それを開花させて、この世にあらしめた人は、もっともっと、限られるんやろなー。

「天から授かること」自体は
「ほんもの」になるにはあまり必要ではないのだろう。
もっとたいせつで、もっとむずかしいのは、
「授かったものと、行動とを一致させて、この世に具現化していく」
っていう部分なんだろうなー。
そのむずかしいことがきちんとできている人が、「ほんもの」と呼ばれるのだろうなー。

「とんでもない才能」をもっていたけれど、努力をしないで、その才能を枯らした人
これは「ほんもの」ではないよなー。

でも、才能はなくても、
コツコツと信じるままに、やり抜くひと。
たとえばおそばがだい好きで
ちいさなお蕎麦屋さんを構えて、
こだわっておいしいお蕎麦屋さんを20年もやり続けて
たくさんのお客さんに愛されているなら
そのひとは「ほんもの」なんやろなー。

途中で「おいしいそば」という軸を忘れて
おいしくないけど安いほう使っておこう、とか、
いつの間にかお惣菜とかタコ焼きとか売り始めたりしたら、
それは「ぶれ」というものであって
おいしい蕎麦屋としては「ほんもの」ではないよなー。

しかし、才能や天啓を授かった人がいたとして、
それを「行動」に移せないことが多いというのは、なんでなんや。
「ワイには野球のあふれんばかりの才能があります」
とわかっていても、才能にかまけて、練習さぼって、youtubeみて
お酒のんで、暴飲暴食して、とかになっちゃうのはなぜなのかなー。

「ほんもの」になるために、
ぶれないで、追い求めるっていうのはきっと、

①未来にどうなりたいかっていうのが、明確に思い描けてるんやろなー。
 多くの人は、そんなにはっきりと、イメージできていなのかもしれないな―

②そして、そのために、今、何をすればいいのかっていうことが、
具体的に、腑に落ちて、わかっているんだろうな。
多くの人は、今やる行動として具体的に落とし込めていないんだろうな。

③そして、「大丈夫や!」っていう、自信がひつようだろうなー。
多くの人は、うまくいかなかったらどうしよう、とか、不安になって、自分のチャレンジを自制してしまう気持ちがでてきたりするんだろうな。
それに打ち勝つことが必要で、そのために、「根拠のない自信」が必要な気もするな。それも「天賦の才」のぶぶんなのかな

④それから、やはり、行動するには、体力がいる。
運動が大事といわれるけれど、この世には体をもって参加しているのですから、
健康な体を維持してゆく意識と努力も必要なのに違いないよなー。

そうかんがえてみると、「ほんもの」には、コーチとか、メンターとか、トレーナーとか、
「先生」や「師匠」っていう役割の人が、たすけになるから、それで「名コーチ」とかいるのだろうかなー。

それとも、そんなコーチなんかの必要なしに、自分だけで、信念を行動に移し切れたら、「もっとほんもの」なのかなー。

「ほんもの」になりたかったら、「この世にあらしめる」必要があって、そのためには、身体をもって、こつこつ続けていく必要があるのだろうなー。

「努力は天才なり」

って、ワイの小学一年生の時の担任のクボタせんせいが何度もいっていたなー。

「努力」というのはきっと、苦しみを伴うことでもあるだろうから、つづけていけるためには、それが好きで、自然にできる、楽しみながらできるっていうことも必要なのかもしれないと思うなー。
そしたら、「ほんもの」になるためには、それが「好き」と思えていることもたいせつな要素なのかもなー。「好きとおもいつづけられること」も「天賦の才」のぶぶんなのかなー。

「ほんもの」とは

それに対して汲めども汲めども尽きることのない情熱をもって探求できる人

のことをいうのかもしれないなー。

そして、ついに「ほんもの」になれれば、たくさんの人と、「しあわせ」を共有できるんやー。
たくさんの人といっしょに喜べてこその「ほんもの」やからなー。

「ほんもの」って、なんかよくわからないけど、魅惑的やなー。
ワイはまだまだ「にせもの」やけど、「ほんもの」にあこがれてしまうよなー。

ワイも、みんなも、それぞれの「ほんもの」になって、世のなかと「たくさんのしあわせ」をわかちあえたらええなー。

でも「ほんもの」ばっかりになったら、それはそれで息苦しくなるのかもなー。
希少だからこそ「ほんもの」なのかもしれないしなー。
少ないからマツタケは高いんやなー。

ワイはシイタケでもええかなー。

1件のコメント

  • わたしは、舞茸がいいわ!その酵素がタンパク質を分解してくれるから!舞茸さんには感謝なのよ。私、タンパク質リスク高だから。DNA検査で最近わかったの。人よりタンパク質沢山摂取しなくちゃいけないので毎日たいへんだぁ〜!天才は努力し続けるひと。そして、継続は力なり。今から、これから、色んなことあるだろうけど、何か一つ誇れるものを自分が納得できる生き方をしてみたい。

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