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百五十粒目『まゆ先輩との再会②プサン1998年6月』

あのころ、ちびっこ22歳のワイは大作家の小田さんやビクトルユゴーみたいにならなければならなかったので
大学院に行くのをやめて新聞配達をしながら「独学」を始めたのであった。

たべるだけのお金は新聞配達でかせいで
あとは思うがままに時間を使って学んでゆけばよいわけだ。

いまおカネがないからといって、ボロを着ているからといって、なんの問題があるだろう。
だいじなのは中身で、実力をつけることで、ワイはこれからホンモノになればよいのである。

そんな思いで自分をなっとくさせて、図書館や古本屋に通っては本を読み、NHKラジオ講座でイングリッシュと朝鮮語・韓国語の勉強にとりくみ、近場の遺跡や資料館や公園などに出かけ、新聞の告知を見てはいろんな講演会や勉強会に参加したりして、そうこうするうちに、わがパスカルを超える心の友、文学の師、62歳の小田さんと出会ってなかよくなることにもなる。

そうして3年半ぐらい新聞配達をしてためたお金で
「いっちょ、世界を見て回ろう」
ということにあいなった。
26歳の初夏である。

まずは下関からフェリーに乗って釜山に渡る。高速バスに乗ってテグに行って、清州にいって、それからいったん帰って、すぐに人生初のヒコーキに乗って、マレーシアで2週間滞在。それからパリに着いて、ヨーロッパの国々、北欧、ニューヨーク、ニュージャージー、を、3か月の日程でビンボー旅行で見て回るのだ。

ということで、思い返せばこれが激動の3か月の旅であって、いろんな人に出会って、いろんな出来事があって、思い出を語っていけばきりがないのだが、こんかいは、韓国編、まゆ先輩のことに絞ってお話をします。

まずは、関釜フェリーがめちゃめちゃゆれて、しかもエンジンの音が爆音や。うるさいねん。かねがないから、いちばんやすい二等船室で同じくおカネのなさそうな人たちと雑魚寝や。それで、ワイはてきめんに船酔いしてしまった。

そしてフェリーの中に食堂があったんやが、ワイ、それが初めての韓国食やった。
ユッケジャン、というのがメニューにあって、なんのこっちゃわからんかったけど注文して、はじめて食ったが、これが、たべ慣れないし、船酔いしてるしで、ホンマにくそまずかった。
これがワイの韓国食との初めての出会いで、最悪の印象で、一気に苦手になってしまった。

そして一夜が明けて、船は釜山港についたわけだが、パスポートにハンコおしてもろて、両替して、はじめての異国、プサンの町へ降り立った。タクシーに乗ったらぼったくられるみたいな話を聞いてたから、なんか運ちゃんが何人か寄ってきたけど、けいかいして、無視した。

それで、はらがへっているので、掘立小屋みたいな小さい店があったから、そこで蒸しパンみたいなのとコーヒー牛乳をみつけて、買うことにした。ユッケジャンの気持ちわるさがまだ胸に残っていたから、「これなら食べられそう」と思ったんや。

それで、お店番をしている若いおんなの子に、

「おるまえよ」

っていった。
ワイ、すこしは韓国語ができる。
ラジオNHKハングル講座でまなんだからな!

そしたら、店の若いおんなのこが、

「チルベグォンイムニダー」

っていった。
はい、ききとれません。
わかりません。
でも、ワイも必死や。
「なんか数字言うたで!値段言うたで!」
ぐらいわかるがな。
NHKラジオハングル講座でなろとるさかいにな。

ちょっとまってな、イル、イー、サム、サー、オー、ユク、チル、
七や!七ウォンか?いや、安すぎやろ!円とウォンは10倍したらええねんな?どっちが多いんやっけ?
70ウォンかな?70ウォンやわ!

と思って、ワイ、100ウォン玉をひとつとり出して渡したんや。
そしたらお店の女の子がおこって、ワイの財布をばっと奪いとった。
そして、1000ウォン札を一枚抜き取ると、ワイに財布を返してくれて、300ウォンのお釣りをくれた。

「かむさはむにだー」

っていうたわ。
いきなり客の財布を奪いとって、きちんと清算してくれるなんて、しんせつやなー。

そうして、恐る恐る、蒸しパンと、コーヒー牛乳を、たべて、のんだけど、おいしかったわー。
キムチ味がしたらどないしよと思ってたけど。
蒸しパンと、コーヒー牛乳は、日本のものに勝るくらい、おいしい。値段は安いし、最高や。

それから、ワイはプサンの町を見物する予定やったけど、知り合いのおる大邱にはよ行きたいわ、あかん、ことば通じないもん。って思ったんや。心細かったんやな。

知り合いっていうのはな、まだ会うたこともないけど、この渡韓に先駆けて、ワイは日本で二人の韓国人を紹介してもろてたんや。
ひとりは、テグの嶺南大学の先生で、ミン先生っていう教授さんや。おとこの人や。
これは、ワイが大学の講義を受けていた濱下先生っていう美学の教授さんに、「韓国行きます」いうたら、「それじゃあミン先生を紹介しますよ~。日本語も上手だし、とてもいい人だから、あってごらんなさい」と優雅な手ぶり付きでいわれて、紹介してもろてたんや。

もう一人は清州の舞踊家のカン・ヘスクさんという女性と、そのダンナさん。ダンナさんは大学教授やったんかな?こちらは、大作家の小田さんからの紹介や。

それで、も、すぐ、バスに乗ってテグに行って、宿を決めて、ミン先生っていう人に連絡しよって、思うたんや。とてもじゃないけど、保護者がおらんと、ことばの通じない初の海外は、なかなかきついわー。

当時は1998年。日本サッカーが初めてワールドカップに出場した年や。フランスのパリ大会やな。ひとびとの連絡手段は、今みたいにスマホどころかケータイも持ってる人のほうが少なかった。パソコンのメールが使われ始めて数年ってところかな。だからワイは、ミン先生の電話番号だけを知っていて、事前に手紙でも書いたんかなあ?よく覚えていないけど、テグについたら、ワイは公衆電話からミン先生の自宅だか研究室だかに電話をかけて、待ち合わせ時間と場所を決めて、会う、って流れや。

さて、高速バス乗り場に向かう道で、舗装されていない、黄土の道やったけど、白い服を着たばあさんが片ひざ立てて一人座っていたんやが、ワイに向かって、「あなた日本人ですか」っていうてきた。「そうです」いうた。
今はもうご存命の方はどんどん少なくなっているだろうけれど、当時の韓国にはまだ、日帝時代(日韓併合時代)に日本語を身につけていたご年配の方が多くいらっしゃったんやな。
「懐かしいですね。わたし日本人すきですよ」っていわはったわ。表情は別にニコリともしてなくて淡々としとった。ほんで、そのばあさんに、

「あんた、きれいなかおしてる。おんなみたい。」

ていわれたわ。
ほんまやねん!ワイ、ちょっと、若いころは、目がきれいとかマツゲナガイとかいわれてやな、見ようによっては美男やったときがあるんやでー。
いうてもたいしたことないし、おせじまじりやったってことはわかっとるけどな!
町を歩いていてふとガラス戸に映る自分の姿を見て
「うおおおおお、ださい!どうしよう。消えたい。」と自己嫌悪することがよくあったから、普遍的にかっこよくはなかったことはハッキリ自覚しているが、
見るひとによっては、見る角度によっては、はたまた見る時間帯、陽の当たり具合、その日の体調、顔色、などの条件がそろった場合には、ワイもなかなか「あり」な外見やったときがあったみたいやでー。しらんけど。
界隈では「ちっちゃいあべひろし」っていわれてたからな!

あのときのおばあさん、いまになって、ありがとう。
ワイと会った時はおばあさんやったけど、むかしは赤ちゃんでうまれて、つぼみの時期があり、花の時期があって、ほんで、ドライフラワーになって、ワイに話しかけてくれて、ありがとうございました。あなたさまこそ、おきれいでした。
記憶のなかに咲く一輪の花や。

(つづく)

1件のコメント

  • 無理やり二重を作る人
    返信

    ちっちゃい阿部寛て笑笑
    阿部寛どんだけデカイねん笑笑
    目がくっきり二重でパッチリしてますもんね( 👁‿👁 )ええな〜うらやまし

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